(7月25日号)「チンチン電車に乗って」 
最近、二回ほど都営荒川線に乗りました。「三ノ輪」から「早稲田」まで走っています。先日は「町屋駅前」から「荒川二丁目」、「荒川二丁目」あら「鬼子母神前」まで。「町屋駅前」などは20人ほどの行列ができます。平日の9時45分ごろでした。ラッシュアワーではありません。車内は座席が満杯、立っている人が10人ほどいました。盛況といっていいでしょう。料金はどれだけ乗っても160円です。昔はチンチン電車といいました。発車のとき「チン、チン」と車掌さんが合図するからですが、今も健在です。ただしワンマンですから、音は飾りです。「鬼子母神前」まで行ったのはおそば屋さんが目当てでした。江戸ソバリエの人たちから「和邑」(わむら)というおそば屋さんのことをきいたからです。こじんまりした店で、ご主人が一心不乱にそばを打っていました。夫婦2人で甲斐甲斐しく働いています。ざる1,000円也を食べましたがソバリエの人たちは夜飲みにきているようです。「和邑」から目白駅まで歩きました。学習院の脇を通って駅に着いたら「生そば」の看板が目についたのでのぞいたのですが、手打ちではありませんでした。「生そば」の名前に幻惑されましたね。同時に「タイ焼き100円」の看板にも魅かれましたが、なぜか休業でした。
1ヵ月ほど前になりますが「バルトの楽園」を見ました。松平建扮する捕虜収容 所長は会津人です。大正期会津人が軍部で出世するのはいくつかの壁があったでしょう。ドイツ捕虜を寛大に扱ったのは会津人だったからかもしれません。軍の反主流だったから敵国人にやさしくできた。ただし武士道は藤原正彦さんがいうように紳士の道である。騎士道に通じ、弱い人への同情は基本です。所長は武士道を実践した、といえます。ちなみに、バルトはドイツ語で「ひげ」の意味です。所長は立派なひげをはやしていました。
もう1本日本記者クラブの試写で「カポーティ」を見ました。作家トルーマン・カポーティの最終作にまつわるストーリーを描いたのですが、取材を徹底させるとはどいうことか、考えさせられました。相手が家族4人を惨殺した死刑囚の場合、とことんぎりぎりの取材をすることがどうなるのか。取材は徹底させようとすると、相手の身に自分をおき代えるほど心を同化させなければならない。カポーティは「冷血」という大傑作を完成させますが、そのあと小説を書けなくなり、間もなく死にます。取材する回数だけは多い私にとっても他人事ではない話です。
ネイチャースクール「くじら学」が終わり、9月16日(土)〜17日(日)「実りの和田学」をテーマに開催します。どうぞスケジュールに入れて下さい。

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【2006/07/25 Tue 03:11 】 | 四方洋のコラム | comment(0) | trackback(0) |
(7月18日号)「川ガキ 集まれ!」 
綾部でNPO「由良川流域ネットワーク」の総会があり、18日夜はホテル綾部に泊まりましたが、朝になってびっくり、降り続く雨で「山陰線は全面的に不通です」とフロントの話。夜は幹事をしている八六会があるし、どうするか。ホテルの女性が「10時10分発京都までノンストップのバスがあります」「それっ」というわけであわただしくバスストップにかけつけ昼ごろ京都到着。駅地下の喫茶店に入ってこの原稿を書いています。
山陰線は山と山の間を走っていて、由良川と平行したり、ぐっと接近したりします。川が増水し、地盤がゆるんで土砂くずれの恐れがあるのです。ローカル線は天災による突発的な不通があるのでこわいですねぇ。またたくうちに陸の孤島になってしまいます。
由良川のNPOも発足して5年ほどになりますが、小生は「不在地主」の理事長で、少々気が引けています。なにかやらなければ思いますが、東京にいてはよいアイデアが出てきません。会員の提案でシャケまつりをやろうと。3月に放流したシャケが11月に上がってくるのでつかまえてナベにしたら、クリごはんと柿をつけて、食券を売り出し、事業にしようと盛り上がりました。NPOは事業をやって、運営費をかせぐのが一番です。活性 化するのは事業の充実です。11月のシャケまつりはぜひ成功させたいものです。京都に帰る途中、村と村の間にみた由良川は増水し勢いを増し、濃い茶色の流れになって突進していました。おだやかな日に、河原でイベントを行う。このごろ川に親しむ人が少ないだけに、なんとしても実現したいと思いました。
カンバックサーモンは一時札幌の豊平川などで盛んでした。川の浄化とのからみで、シャケは象徴的な存在でしたが、由良川のシャケは日本の南限になります。シャケの夫婦が前後しながら川を上ってくる様子はすばらしいといいます。子供達に見せてやりたいし、シャケをさばいてナベにして、食べるところまでを実習してほしい。山や川に学ぶ機会は本当に少ない。「川ガキよ集まれ!」なぜか濁流をみながら、不在理事長はつぶやきました。
なぜいま藤原正彦作品が読まれるのか。ある雑誌にまとめました。日本の国としてのアイデンティティが見えなくなっている。アメリカのポチになっているなどありますが、家庭事件の多発がありますね。殺人事件の3分の1が親子関係。「子どもに殺されないために」という雑誌の特集があるくらい。藤原さんは「自信を持て!」といっています。

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【2006/07/18 Tue 03:13 】 | 四方洋のコラム | comment(0) | trackback(0) |
(7月11日号)「東京の新聞は地方が判らない」 
滋賀県知事に嘉田・精華大教授が当選したのは先週ですが、私はちようど関西に行っておりました。さすがに大阪の新聞は一面トップでしたが、東京に戻ってきてびっくりしました。毎日は一面ではありましたが横4段。5番手の扱いです。読売はなんと二面で小さく2段。嘉田さんは女性の農学者で、琵琶湖の水質にかかわってきた人です。25年間周辺の集落を歩いて調査してきた人です。この人が自、公、民相乗りの現職に闘いをいどんだ。それも新幹線の駅ストップを旗印に。新人として3万票ほどの差は圧勝といっていいでしょう。彼女の勝利は昨年の総選挙とちがった新しい流れの表れだと思います。新聞の扱いはなんだ。ものすごくナマっている。あるいは地方のことだから小さく扱ったのか。なんでも東京中心の頭しかないのね。テレビは論外、せめて新聞だけでも新しい流れに敏感であってほしい。それに滋賀県の特徴を知らないね。この県は県民所得の伸び率はもっとも高く、人口流入率も高い。景気回復の恩恵をうけているところです。そういう地域ほど環境に敏感で、問題意識がとぎすまされてくることを知りなさい。とにかく新聞は現場も、整理も 勉強していない。
日帰りで喜多方に行ってきました。駅長さんとインタビューです。ラーメンを二軒で食べました。最近は4〜5人できて1杯注文し、分け合って食べるのが多いそうです。少しずつ食べてなるべく多くの店を訪ねる。10軒ほどでミニラーメンを出しているといいます。食べ歩き用ですね。よく知られていますが、元祖は「源来軒」(げんらいけん)、大正末に開店ですから80年以上がたっています。当時は「支那そば」といっていました。喜多方って幸せそうな地名ですね、喜びの多い地方です。本当は会津の北という意味とききましたが。駅長さんはお酒も好きそうで「今度飲みにきて下さい」と明るく話していました。
ワールドカップサッカーのとりこになりました。中で中田の引退は不愉快でしたね。扱いも大きすぎると思いました。中田は個人のためにサッカーをするんで、国家のためじゃないといっていました。WBCのイチローとはちがいます。「孤高」といっても中田のそれはわがまま。スポーツ界のヒルズ族の感じです。さっさとビジネスでもおやりなさい。そして巨億の富を貯めなさい。

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【2006/07/11 Tue 03:15 】 | 四方洋のコラム | comment(0) | trackback(0) |
(7月4日号)「日曜休みの図書館があった!」 
和歌山に行ってきました。「ぺるそーな」の連載で二階俊博大臣のことをとり上げるのです。日曜日、ホテルからタクシーを飛ばして市民図書館にへ行きましたが、休み。「どういうことか」少々怒りました。市民も2人ほど休みを知らずにきていました。
日曜日に図書館が休みってあり得るのかと思います。張り紙によると6月20日すぎから7月3日まで特別整理日だそうです。ふざけんなといいたいですね。こんな長い期間休む図書館がどこにありますか。やりくりしても日曜は開館すべきです。この図書館では7月だけでプラス6日ほど休みます。最近は本来の休館日である月曜もNPOなどに委託して開くところが出てきています。館長のいい訳は想像つきますが。
やむを得ずバスで15分ほどの県立図書館へ出向いたらここの特別整理日は1日だけでした。これで充分でしょう。市民の方に心が向いていない市民図書館、さっさと市立をやめてNPOに引き渡したらどうですか。
弟の淳六が「淳風」というエッセイ集の出版記念会をしました。久しぶりに兄弟や旧友と会い、酒量オーバーでした。弟は子どものころの遊びや母のことを書いています。私は2才上ですから彼らのリーダーでした。小学4年から中学3年まで、私より上はいなかったので、長期政権でした。淳六と八洲男を引きつれてガ キ大将をやっていました。とりわけ草野球は教えこみました。2人ともコーチを追い越してうまくなりましたが。草野球の要素はゴムマリ、三角ベース、竹バットです。捕球は素手ですが、昭和23年ごろ、すでに私はサインを出し、スコアブックをつけていました。ノートに打、安、点、失などを正の字で記録していました。「綾部・近代野球の父」といったら爆笑でした。
村上晃一郎君とも話していたのですが「あのころはよかった。」モノは不自由だったけれど子どもに創意工夫がありました。いじめなんぞ、やろうともしなかった。なぐったことはありますが、なぐった方が気にして、気になって意を決して謝りに行ったりしました。なんといっても地域が残っていて、大人も暖かく見くれていました。草野球を復活したいな。ゴムボールのあとはソフトボールでした。神社の境内から城丹(蚕糸高校)のグランドに移って、私たちの野球はスケールが大きくなりました。
挨拶の中で、洋、淳六、九州男の3兄弟の名前の話をしました。3人とも軍国にちなんだ名前ですが、2点いい忘れがありました。父は水が好きでサンズイを8人の子につけたこと、淳六は南京占領の軍司令官2人からとった名前ですが、6男だから六がついたのです。おじさんは淳六とおぼえず「淳八」とよんでいました。

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【2006/07/04 Tue 03:16 】 | 四方洋のコラム | comment(0) | trackback(0) |
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